「これがいい」と、自分で決められるようになるとき

──感じる耳が、選び取る力に変わる──

感じたことが、くり返しの中で自分の方法として使えるようになると、生徒たちのレッスンには、また少し違う言葉が増えてきます。「わかった」ではなく、「これがいい」「こっちのほうが好き」という言葉です。

濁らない、きれい、という感覚が、耳を導く、ということ

あるソルフェージュのレッスンで、生徒がこんな感想を書いていました。

「ドリア旋法を使ってハモっても濁らなくてきれいだなと思った(なぜ濁らないのか不思議に思った)」

理論的な説明より先に、「きれい」「不思議」という感覚が生徒の中に生まれています。何を美しいと感じるか、何を心地よいと感じるかを判断する働きを、美学では審美的判断(aesthetic judgment)と呼ぶことがあります。難しい言葉ですが、中身は単純で、「これは好き」「これはちょっと違う」と、自分の感覚で選び取る力のことです。ドリア旋法の響きに「不思議」を感じ取れる耳そのものが、すでにその力の芽なのだと思います。

音の質を、自分の言葉で言い当てる、ということ

別の生徒は、和音の重複について、こんな表現を使っていました。

「第3音重複すると、もやがかかっているような音になると感じた」

「もやがかかる」という言葉は、誰かに教わったものではありません。自分の耳で聴き取った質感を、自分の言葉で言い当てたものです。こうした感覚は、作曲や編曲の場面でもそのまま活きてきます。伴奏の音域を変えると「軽く、すっきりした感じになる」、和音の形を変えるだけで「ゴージャスになる」——同じ材料でも、選び方ひとつで表情がまるで変わることに、生徒たちは自分の手で気づいていきます。

選ぶことが、自分の音楽をつくる、ということ

即興でメロディを作る活動では、こんな気づきもありました。

「いろいろな和音を使うのではなく、ⅠやⅤを多く使って、サブドミナントをアクセントとして使うと良い」

これは正解を覚えたのではなく、いろいろ試した末に、自分なりの好みとして選び取った方法です。こうした判断は、ひとりだけで育つものではありません。グループでの即興では、相手の音を聴く力、次を予測する力、自分の順番で応じる判断力、そして相手のアイデアを受け止めながら自分の表現も保つ力が、同時に働いています。ある話し合いの時間では、小学2年生が感じたことを素直に言葉にし、それを聞いた中学生が「なるほど」と拍手を送る場面もありました。自分の感覚を信じることと、他者の感覚を尊重すること。この二つは、思いのほか近い場所にあるのかもしれません。

作曲の課題に取り組んでいたある生徒は、最初、こんな行き詰まりを感じていました。

「あまりにも頭が固かったのでメロディが思いつかなかった」

けれど、そこで手を止めず、自分の振り返りをこう続けています。

「和音進行が限定されていても色々なメロディが思いつくように、1人の作曲家の曲だけを聴くのではなく、いろんな人の色んな曲を聞いて自分のものにしたい」

そして、たどり着いたのが、この一言でした。

「今の私はお子様みたいな曲だから、そこから一皮脱いで色んな長三和音短三和音を織り交ぜた曲を作りたい」

行き詰まりから、視野を広げる決意へ、そして自分がどんな音楽を作りたいかという方向づけへ。これは、技術の目標ではなく、審美的な方向づけです。何ができるようになりたいか、ではなく、何を美しいと思う自分でありたいか。そう問える生徒に育っていることに、静かな手応えを感じています。

感じ、振り返り、構造として理解し、そして自分の感覚で選び取る。ここまでの三つの段階を経て、生徒たちは少しずつ、自分自身の音楽的な判断力を育てています。次回は、こうして育った判断力が、音楽を超えたどんな力につながっていくのか、その先を考えてみたいと思います。

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