──くり返しの中で、身体の記憶が意味に変わる──
くり返しの中で、動きは無意識から意識へ、そして自動化されたものへと変わっていく。前回はその過程をたどりました。けれど、自動化された動きが、そのまま自分の音楽になるわけではありません。身体が覚えたことを、生徒自身がどう自覚し、どう言葉にし、どう音楽の構造として理解していくのか。そこにもう一段階があります。
自分で自分に気づく、ということ
ある回のレッスンで、生徒の一人がこんなことを書いていました。
「『振り返り』は何をやったかだけ書くのではなく、自分の思ったことや感じたことを書いて、みんなと共有するメタ認知」
振り返りという行為そのものの意味を、生徒自身がこうして言い当ててくれることがあります。何をしたかではなく、自分が何を感じ、何を考えたかを見つめ直す。これは自分の状態を一段上から眺める力、いわゆるメタ認知と呼ばれるものに近いのだと思います。
別の回では、こんな振り返りもありました。
「楽譜に書いた時にやっとわかったので、書く前から脳内でイメージできるようにしたい」
これは、ある活動がわかった、という段階を超えています。自分がどうやって理解しているのか、その理解の仕方そのものを振り返り、次の目標を自分で立てている。発達心理学では、自分の行動や思考を目的に応じて調整していく働きを自己調整(self-regulation)と呼ぶことがあります。「まだ書く前には浮かばない」と気づき、「次はこうしたい」と自分で見通しを立てる。この小さな一言に、その働きがそのまま表れているように思います。
この気づきは、ひとりで机に向かって生まれるものではありません。ある生徒は、友達の即興演奏を聴いたあとに、こう書いていました。
「周りの人のメロディ即興を聞いて、前半4小節は上向きな音型、後半は下向きな音型を使っていてきれいだったので、そのようなことを意識してメロディを考えていきたいと思った」
別の生徒は、こんな振り返りを残しています。
「他のメンバーの動きを見たことで、自分の頭のなかにはなかった新しい動きが知れてバリエーションが増えた」
他者の身体表現や発言を観察し、聴き取ること。哲学ではこれを相互主観性(intersubjectivity)と呼ぶことがあります。自分の内側だけを見つめていても、気づける範囲には限りがあります。けれど、他者がどう感じ、どう動き、どう考えたかに触れることで、自分では見えなかった角度から、自分自身の理解を捉え直すことができる。振り返りシートに「人の意見を聞いて考えが変わったこと」という項目をあえて設けているのも、この働きを見過ごさずに拾い上げるためです。
身体が覚えた理解を、無理にでも言葉にしてみる。この「振り返り」という作業は、単なる感想文ではありません。身体の中にだけあった暗黙の理解——専門的には暗黙知(tacit knowledge)と呼ばれるもの——を、誰かと共有できる、目に見える形の知識、いわゆる形式知(explicit knowledge)へと変えていく作業です。指導する側がどんな意図でその活動を組み立てたかということと、生徒の内側で実際に何が起きているかということは、本来、簡単には結びつきません。けれど、この暗黙知から形式知への変換をくり返すことで、その二つの間に、少しずつ橋が架かっていくのだと思います。
この変換は、放っておいて自然に起こるものではありません。振り返りの「型」そのものも、生徒たちの様子を見ながら調整してきました。ある回では、それまでの項目を、もう少し自由記述に近い形に変えています。生徒が書きやすくなるように、という意図からでした。
日々のコメントにも、同じ姿勢が表れています。拍と拍子をまだ混同している生徒がいると気づいたときには、次回のレッスンで実際の楽譜を使って解説し直す、という具体的な手当てを用意しました。一方、和声の骨格がすでに身についた生徒には、答えをそのまま渡すのではなく、「これをピアノで弾くとき、どう指先に伝える?」というように、次に考えるべき方向だけを示すこともあります。
教育心理学では、こうした支え方を足場かけ(scaffolding)と呼ぶことがあります。何を教え、どこから先を生徒自身に委ねるか。その匙加減を、レッスンのたびに調整し続けること。これもまた、身体の理解が言葉になっていく過程を、静かに支えているものなのだと思います。
感じたことが、構造として見えてくる、ということ
身体で感じたものが、くり返しの中で自分の意識に上ってくると、今度はそれが音楽の構造そのものへの理解につながっていきます。
アナクルーシスから始まる旋律を作る課題では、最初に作った曲について、ある生徒がこう振り返っていました。
「最初にアナクルーシスの曲を作った時、最初に分割を入れていなかったので、これから分割を入れて、もっとアナクルーシスらしい曲にしようと思う」
最初からうまくいったわけではありません。一度作ってみて、何かが足りないと感じ、その原因を自分で探り当てて直す。この一連の流れの中で、感覚として持っていた理解が、はっきりとした方法として身についていきます。
リズムを拡大したり縮小したりする活動のあと、ある生徒はこんな発見を書いていました。
「どんなリズムを表すにしても、八分音符3連がもとになっていることを忘れないことが大事だとわかった」
「音の長さを2倍にしたり2分の1にする時は、上線を1本足したり引いたりするだけでほぼ書ける方法があることを学んだ」
身体で拡大縮小を体感していたからこそ、楽譜の上の小さな工夫が「なるほど、そういうことか」という納得につながったのだと思います。感覚として掴んだものが、次第に頭の中でも扱える形になっていく。そうして初めて、その理解は演奏や即興、作曲といった、自分から音楽を生み出す行為へと応用できるようになっていきます。
作曲に取り組んだある回では、「今までは先に曲を作ってから和音を確認しておかしいところを変えていたけれど、先に和音をだいたい決めて書いた方が楽だとわかった」という発見もありました。一度やってみて、うまくいかない部分に気づき、自分のやり方を修正していく。この一連の流れの中で、身体の記憶が少しずつ、自分の方法として使えるものに変わっていくのだと思います。
感じたことが、意識され、振り返られ、構造として理解される。この過程をくり返しながら、生徒たちは少しずつ、自分自身の方法で音楽と向き合えるようになっていきます。次回は、そうして育った理解の先で、生徒自身がどのように音楽を選び取っていくのか、その姿をたどってみたいと思います。
