──動きが、意識から自動化へ変わる──
身体は、耳より先に動きだす。前回はそのことについて書きました。けれど、身体が感じ取ったものが、そのまま自由に使えるようになるわけではありません。同じ動きを何度もくり返す中で、初めて起こることがあります。
くり返す中で、無意識が意識に変わる、ということ
リトミックのレッスンでは、同じテーマを何度も違う角度から扱います。最初は、音楽のある要素にただ反応して身体が動くだけです。けれど、その動きの中で試したり、少しくずしてみたり、うまくいかなかったところをもう一度やり直したりするうちに、動きは少しずつ「何となく動いた」ものから「自分で選んで動いた」ものに変わっていきます。
この過程は、決して楽なものではありません。あるソルフェージュのレッスンで、音の高さを聴き分けて身体で表す活動をしたあと、こんな振り返りがありました。
「頭ではその音が高い、低い、真ん中がわかっていても、それを体で表すとなると、頭が混乱して対応がおそくなってしまう」
わかっていることと、それを瞬時に身体で表せることの間には、はっきりとした距離があります。
別の生徒は、ターナリ―ビートのステップを練習した回に、こう書いていました。
「流れたリズムを脳内で譜面に書き起こすことや、ターナリ―特有のステップの方があることなど、考えることが多くて苦戦した」
リトミックの動きは、感覚のままに自由に動けばよい、というものではありません。一つひとつの動きの中に、リズムやビート、次の動きへの準備といった、多くの情報が同時に組み込まれています。最初はその情報量に、頭も身体も追いつかず、もがくことになるのです。けれど、この苦戦こそが、次の段階への入り口でもあります。くり返すうちに、動きは考えなくてもできる「自動化」されたものへと変わっていく。
動きが自動化されるということは、単に楽になるということではありません。それまで動くことに使われていた注意が空き、その分、音楽そのものへと意識を向けられるようになる。身体で覚えた理解が、後になって演奏の中でより洗練された形で活きてくるのは、この自動化のはたらきによるものだと思います。
この移行そのものが、リトミックの学びの核心なのだと思います。無意識の反応として始まったものが、くり返しの中で意識的な関わりへと育っていく。そうして身体に刻まれていく理解は、言葉で説明されて覚えた知識とは、少し性質が違うもののように感じます。
自動化が、指先の自由になる、ということ
この自動化の効果は、リトミックの中だけにとどまりません。三拍子のステップをしながら、指示された拍だけ手を叩くという活動をした回、生徒はこう振り返っていました。
「三拍子ステップをしながら指示された拍でクラップする(これができるようになるには、ステップが自然にできる=自動化される必要がある)」
その日の全体のまとめには、こう書いています。
「テクニックの練習も、この自動化のためにあると言えます」
ステップという単純な動きでさえ、自動化されて初めて、その先の表現に意識を向けられるようになる。これは、ピアノの指の動きにもそのまま当てはまります。指づかいや基礎的な打鍵の動きが自動化されていなければ、音楽そのものを感じる余裕は生まれません。ハノンやツェルニーといった基礎練習の意味も、突き詰めれば同じところにあるのだと思います。
別のレッスンでは、足で一定のビートを保ちながら、手と口で別のリズムを刻むという活動もありました。足と手、それぞれを別々にコントロールするこの力は、ピアノを弾くときの両手にも、そのまま重なります。片方の手で伴奏を保ちながら、もう片方の手でメロディを歌わせる。この感覚は、鍵盤の上で急に身につくものではなく、身体のあちこちを独立させて動かす経験の積み重ねから育っていくのだと思います。
拡大縮小のリズムを瞬時に切り替える練習をした回にも、似た気づきがありました。
「瞬時のHip, Hopの切り替えに応じられるようになり、速さによってスペースを変えることができた」
合図に応じて動きを止めたり、切り替えたりする力は、ピアノでいえば、テンポを急に落とす、フレーズの終わりで音を止める、といった、瞬時の判断力にそのままつながっているように思います。
けれど、動きが自動化されただけでは、まだ足りないことがあります。身体が覚えたことを、生徒自身がどう自覚し、どう言葉にしていくのか。次回は、その先の過程をたどってみたいと思います。
