音楽の先に見えてくるもの

──身体で育った理解が、世界と関わる仕方になる──

身体が感じ、くり返しの中で動きが身体に刻まれ、その感覚を振り返って言葉にし、構造として理解し、自分の感覚で選び取る。ここまで四回にわたって、リトミックのレッスンの中で生徒たちに起きていることをたどってきました。最後に、この積み重ねの先に、何が育っているのかを考えてみたいと思います。

違いを聴き分ける耳が、違いを受け止める力になる、ということ

ここまでたどってきた記録には、うまくいった瞬間だけでなく、わからなくて苦戦した瞬間、思うように身体が動かなかった瞬間も、数多く含まれていました。そのたびに立ち止まらず、もう一度試し、少しずつ違うやり方を見つけていく。この、壁を避けずに向き合い続ける姿勢そのものが、ここから先の話の土台になっています。

動きを伴いながら音楽を聴く経験について調べたある論文に、興味深い指摘がありました。動きを通した聴取を続けた子どもたちは、耳慣れない音楽に対しても「親しみ」を持てるようになり、身体の動きを通して楽曲の構造そのものを理解できるようになる、というものです。これは、私が日々の記録の中で感じてきたことと、かなり近いように思います。

知らない旋法の響きを「濁らなくてきれい」と感じ取った生徒がいました。和音の重複を「もやがかかった音」と言い当てた生徒もいました。これらはどちらも、初めて出会う音や、まだ言葉になっていない違いを、拒まずに受け止め、自分の感覚で味わおうとする姿勢です。人は身体を通して世界を知覚し、そこから理解や判断を組み立てていく、という考え方があります。だとすれば、耳慣れない音楽をおもしろがれる耳は、耳慣れない考え方や、自分とは違う感じ方をする人にも、同じように開かれていく耳なのかもしれません。

集団の中で、自分を保ちながら関わる、ということ

グループでのリトミックやアンサンブルの場面では、もうひとつ別のことが育っています。ある話し合いの時間では、小学生から中学生まで年齢の違う生徒たちが、自分の気づきを言葉にし、お互いの発言に「なるほど」とうなずき合う時間がありました。以前、その様子について、自分から、空間へ、そして他者へと関係性が少しずつ広がっていく、という言葉で書いたことがあります。全員が同じ動きをすることが目的ではなく、それぞれが自分の感じ方を保ったまま、相手の音を聴き、間合いを合わせていく。同じになることではなく、違ったままで関わり合うこと。アンサンブルの練習は、実はこうした関わり方そのものの練習でもあるのだと思います。

これが、次の世代に手渡していけるものなのかもしれない、ということ

音楽の授業が学校教育の中で少しずつ小さくなっていく、という話を耳にすることがあります。そのたびに、失われるのは「ピアノが弾ける子が減る」ということだけではないのではないか、と感じます。

身体で世界を感じ取ること。まだ言葉にならない違いに気づき、自分の感覚でそれを味わうこと。集団の中にいながら、自分自身であり続けること。そして、何を美しいと感じ、何を大切にしたいかを、自分の経験にもとづいて判断すること。こうした力は、音楽に限らず、これから先の時代を生きていくうえで、静かに、けれど確かに効いてくるものなのではないかと思っています。


ここから先は、証明というより、私自身の実感に近い話になります。文化というものは、ただ残せばよいわけではなく、何を残し、何を選び取っていくかを、その都度、人が判断しながら次の世代へ運んでいくものなのかもしれません。だとすれば、身体で感じ、自分の言葉で振り返り、自分の感覚で選び取る経験を積み重ねてきた生徒たちは、いつかそれぞれの形で、その判断を担っていく人になっていくのだろうと思います。

16年間、ひとりの生徒と関わり続けた年月の中で、教えているつもりが、いつも生徒に教えられてきました。感じ、振り返り、選び取る力を育てることは、音楽家を育てることであると同時に、その先で、それぞれの生徒が自分の人生をどう生きていくか、という土台を育てることでもあるのだと、この一連の記録を読み返しながら、あらためて感じています。

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