16年間、一人の生徒を育てるということ
音楽教室を続けていると、長いご縁をいただく生徒さんがいます。今年の春、16年間通い続けてくれた生徒が、大学進学を前に区切りの日を迎えました。
未満児リトミックを経て、幼稚園の年中でピアノレッスンを開始した彼は、最初からピアノへの反応がとびきり鋭い子でした。難しいフレーズも耳と指がすぐに捉える。ただ、小学低学年でソナチネを弾き始めた頃は「ガチャガチャした音で弾かないようにしましょう」という声掛けも多く、丁寧に音を出すことはまだこれからでした。自分の気持ちを言葉にすることも苦手で、レッスン中の問いかけに答えるのも得意ではありませんでした。お母様にもレッスンに付き添っていただきながら、本人への問いを重ねてレッスンを進めていった時期です。
転機は、ツェルニー30番を終える頃から訪れました。当教室で取り入れているツィーグラー奏法——「力を抜いて、一音一音をピアニッシモで超絶ゆっくり弾きながら、音を最後までよく聴く」という練習が身についてきた頃から、音が明らかに綺麗になっていきました。速く弾くことより先に、一音に向き合うこと。その積み重ねが、耳と指の関係を変えていくのを、横で聴きながら感じました。
さらに大きな転機は、中学2年生の冬でした。それまでもコンクールで地区大会での受賞を重ねていましたが、思い切ってステージを変えて臨んだ全国規模のコンクールで、全国大会の銀賞を受賞したのです。「自分はやれる」という手ごたえを掴んだ瞬間だったと思います。
音楽の深みが増すにつれて、彼自身も変わっていきました。ショパンの練習曲やバッハの平均律を弾くようになった頃には、一度自分のものにしてしまった曲を、楽譜通りに音を出すというより、音楽そのものを奏でるレベルで弾くようになっていました。レッスン中に横で聴いていると、ただ指導しているというより、「音楽を聴いている」という感覚になることがありました。
人としての成長も重なっていきました。あれほど言葉が少なかった彼が、いつの頃からか教室の中で一番礼儀正しく、きちんと敬語を使って話せるようになっていました。年下の生徒たちからも一目置かれる存在になり、周囲への気づかいができる好青年に育っていきました。発表会では「誰々の演奏がとても良かった」と具体的な評価コメントが言えるようになり、誰の演奏からも吸収し学ぼうとする姿勢が見えるようになりました。
高校生になり、自分でコンクールへの参加を決めた頃には、「自分にとってのピアノとは」という問いを自分の中に持ち、優先順位をつけながら音楽を自分の軸として考えられるようになっていました。それはもう、私が何かを教えるというより、彼が自分で答えを見つけていく過程を見守る時間でした。
区切りの舞台では、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンという自身で選曲したプログラムを、自分の言葉で語りながら演奏しました。16年間の積み重ねがそこにありました。
彼と取り組んだ曲の数々は、私自身の指導者としての幅を広げてくれるものでもありました。生徒に育てられた、と感じる時間が、長い年月の中にたくさんあります。一人の子どもと長く関わることは、指導者にとっても特別な経験です。その子の成長に伴走しながら、こちらも問い続ける。16年という時間を通じて、レッスンが技術の習得の場であると同時に、生徒と指導者が互いに育ち合う場でもあることを、改めて教えてもらいました。
そしてふと、生徒を育てることは、原石を磨くことに似ているかもしれない、と思います。磨く前の石には、すでにその子だけの個性や輝きが宿っている。丁寧に時間をかけて磨いていくなかで、隠れていた光沢が現れ、その石にしかないストーリーが少しずつ顔を出す。どんな色を持つ石なのか、磨くまではわからない。だからこそ、一人ひとりと向き合うこの仕事は、尽きることのない喜びに満ちているのだと思います。
