──頭での理解と、身体の再現をつなぐもの──
コンクールの本選を控えたある生徒とのレッスンで、指導者として大きな気づきがありました。
この生徒は、豊かな音楽的感性と表現力を持っています。だからこそ、なのだと思います。私はこれまで「もっとこうすると音楽が伝わるよ」「音を最後まで聴いて」「楽譜をよく見て」と、様々な角度から言葉を尽くしてきました。
レッスンの中では、理解しているように見えます。「次は何をしたらいい?」と尋ねれば、正しい答えが返ってきます。それなのに、自宅での一人練習になると、その大切なプロセスがすっぽりと抜け落ちてしまう。
「頭での理解(知識)」と、「身体での出力(再現)」のあいだには、深い溝があるのだと感じていました。ピアノが好きで、長時間の練習も重ねているのに、レッスンでできていたことが、なぜ家では再現できないのだろう。そんなもどかしさを、長く抱えていました。
「わかっている」と「弾ける」のあいだ、ということ
この溝は、理解や才能の有無だけでは説明がつきません。レッスンという場には、私という耳があります。
生徒が気づく前に、私の表情や声が、わずかな違和感を伝えてしまうこともある。だから「わかっている」ように見えるのだと思います。
一人の練習になると、その耳を自分の中で立ち上げなければなりません。今、自分がどんな音を出しているか。次に何を聴くべきか。それを自分に問いかけ、自分で答える力——即興演奏やリトミックのレッスンで育ててきたメタ認知(自分の状態を客観的に見る力)の力と、根っこは同じものだと感じています。私は、この『自分を客観的に見ながら学ぶ力』がとても大切だと思います。
けれど、この力は教えてすぐに身につくものではありません。長い時間をかけて、少しずつ自分のものにしていくしかない力です。
気持ちを言葉にできるようになった、ということ
今年、少し様子が変わってきました。
本人が本選の練習に取りかかる前に、「悔しい」「こうすれば良かった」という気持ちしか残らないのは嫌です。「楽しかった」「悔いがない」という気持ちで終えたいです、というメッセージをくれたのです。
ここまで、自分の気持ちを言葉にできるようになったことに驚くとともに、これまでと同じような「一方的に伝えるレッスン」を私自身が脱して、彼女の成長に合わせた進め方を考える必要性を感じました。
「待つ練習」が、耳を育てていく、ということ
これまでは強いてこなかった、少し忍耐力の必要な練習方法を、積極的に取り入れることにしました。
たとえば、レッスンでメトロノームを使い、あえてテンポを落として、一音一音の残響を細部まで丁寧に聴き、次の音を準備しながら弾く練習です。地味で、愚直な繰り返しです。
けれどその中で、生徒自身が、私に言われなくても自発的に弾き直し、「もっと良い音はないか」と自分の耳で探り始める瞬間がありました。
「先生が横にいなくても、この練習が家でできるようになってほしい。でも、まだ一人では難しいかもしれない。だから本選までは、一緒にその再現性を高めていこう」——そう伝えながら、これまでにはなかった、練習内容へのシビアなコメントも少しずつ伝えるようにしました。
一見、厳しく聞こえるかもしれません。ですがこの言葉は、レッスンの内容を理解する認知力——メタ認知——を鍛える、直接的なトレーニングとして機能し始めました。「自分の中で整理し、次に取り出す」という学習の回路が、少しずつ成立していったのです。責任を、少しずつ本人に返していく段階に入ったのだと感じています。
共通言語が生まれる、ということ
私が、子ども自身が伸びていくために必要だと考えている力は、「先生の指示通りに弾ける」ことではありません。レッスンで体験した音の解像度を、自宅の一人練習でも再現できることです。
「今日は何を聴くのか」「どんな音を目指すのか」「そのためには、身体をどう使うのか」。それを自分で思考し、選択し、実行できる力です。
そのために、レッスンまとめを作り、自習テキストを渡し、練習法をできるだけ言葉にするようにしています。知識を増やすためではありません。レッスンで掴んだ一瞬の感覚を、自分ひとりの練習でも手繰り寄せられる、再現可能な技術に昇華させるためです。
教師、生徒、そして保護者が、同じ解像度の言葉を持つこと。すると、「頑張っています」という抽象的な会話ではなく、「今日はこの音が上手く出せるようになった」「ここは離鍵のタイミングが課題」「次はこれに取り組もう」という、具体性のある対話へと変わっていきます。教育は、この共通言語が育って初めて、大きく前へ進み始めるのだと思います。
十人いれば、十通りでいい、ということ
私が若い頃、長く師事した先生からいただいた言葉があります。「先生が同じだと、生徒はみんな同じ演奏をする。そんな先生にはならないでほしい」。
その真意を、私は長年、考え続けてきました。今、少しずつ、解が見えてきたように思います。
共通言語とは、全員を同じ型にはめて、同じ演奏をさせるためのものではありません。楽譜という客観的な設計図を、それぞれが自分の言葉で読み解いていくための、共通の足場です。
正しく組み上げられた足場という土台があって、初めて、その上に描かれる表現は自由になる。骨組みを共有した上で、そこにどんな色彩を乗せるかは、一人ひとりの世界です。
十人いれば十通り。いえ、十通りでなければ、意味がないのだと思います。
それぞれの子どもが、自分だけの音楽を、誇りを持って奏でられるように。そのための共通言語を、これからも子どもたちや保護者の皆さんと一緒に、育てていきたいと思っています。本当に上手に弾ける子とは、自分で音楽を育てられる子だと私は考えています。

