無欲の欲
「あたまで弾くピアノ」という本に出会った。
1986年第1刷、2007年第19刷発行されている。
冒頭から、メカニズム先行のピアノ教育を否定し、どんな動きであっても1音1音すべての音をうたって弾くために、指先を常に頭の従者として訓練することが必要だと、書かれている。
手と脳の関係についての記述があり、ただ指を動かすだけのことや、楽譜を見て鍵盤をたたくだけの指の使い方は、運動連合野というところで、運動の順番を組み立てるところであるらしい。
子供のピアノのおけいこの場合は、ほとんどの人がその部分のみを使って弾いてしまっているので、そのことに気が付かないと、ピアノを弾くということに対する、弾いたという満足感はあっても、音楽する醍醐味である心の喜びは得られず、成人しても、自分自身の表現をするのに、非常な苦労をしなくてはならないのです。とある。
(昔弾いた曲が、指で覚えていたものだから今は弾けないってこの事かも・・・)
ところが、ピアノストがピアノを弾く場合は、前頭連合野(前頭葉)という部分を使っていて、ここは精神脳ともいわれているように、人間として最も大切な意欲、創造、思考、選択などをつかさどる部分である。とのこと。
(「ピアニスト」…の定義が曖昧な気もするが…)
ヨーロッパにおいても、一時代前、初期のリストを含めて、単なるメカニックの練習に2時間以上も費やしていたらしい。
そんな中にあって、ショパンだけは唯一の例外で、ほとんど独学でピアノのテクニックを学んだこの天才は、ひたすらに音に精神を集中させることにより、歌うピアノという新境地を開いた。その気品に満ちた音、限りない微妙なニュアンス、気取りや誇張のない純粋な音そのものの詩情、魂のこもった演奏から滲み出る優しさ・・・(略)・・・ショパンは、メカニックに対する職人芸的な見方に反対して、技術の習得はもっと芸術的であることを主張し、空疎な練習を機械的に繰り返して愚鈍になることを特に戒めていたという。ショパンにとって、テクニックとはまず、音の響き具合であり、タッチの用い方であり、美しい音を上手にニュアンスをつけて弾くことができること、であった。
との紹介から、
ショパンが現代のピアノの出発点であり、タッチをすべてとした天才のショパンの奏法こそ、真に私たちが学ばなければならないものなのです。
と著者は、正しい奏法というものに対する、興味付とその正当性をここに起因させて、以下、ツィーグラアー奏法と、マイラー=ギーゼキングによる「現代ピアノ奏法」を自身の理想とする「あたまで弾くピアノ」の練習方法と絡めながら、この本で述べている。
ツィーグラー奏法!?
とあり、興味深く読み始めたのだが・・・
いかに初期教育が重要か、
ソルフェージュから入り、耳を育てることがピアノを弾くことより前に必要な事か、海外の様々な事例や
日本における教育のシステムの稚拙さなど、
また、弾き方、勉強の仕方など・・・良いことが、とてもしっかりと書かれているし、
書かれていることに間違いはない。
しかし、
ツィーグラー奏法の記述においては、導入部分の紹介にとどまっている。
ツィーグラー奏法とは、単に指や体をどう使うか、音を精神性をもってどのように聞くかということだけではない。
表現芸術の有り方そのものの域ととらえられるもので、実際にこの奏法のレッスンを受けてみると、「方法として身に着ける」類のものではないとわかる。
最近、こんなことがあった。
コンクール前ということもあり、弾き込んで由紀乃先生のレッスンを受けた生徒さん。
いつもは、ふんわりとのびやかな音が、由紀乃先生のレッスンで深みが増し、心地よい響きに聴いていてもほっこりと、また惚れ惚れとする。
ところが、その日はsf(スフォルツァンド)が何度弾き直しても固くなり、「力まないで!」と注意を受ける。
レッスン後、先生と奏法についていろいろお話させていただいているときに、
「そう、今日の「力み」には、野心を感じました。意欲というよりも欲、というか、ゴールが見えてしまっている、というような・・・」と、仰った。
ほんの少しの「結果」というものを意識する心が、このように表れてしまったということか・・・少しの曇りも許されない、澄み切った「心」が問われる、シビアさ。
『無欲の欲』 とでも、言えようか・・・
音楽により知る心の世界…なかなか味わえない醍醐味。
その日、お聞きしたのは、「ツィーグラー奏法において、音を聴くときに音楽をイメージするその理想の音をどのように自分の中で持てばよいか」ということ。
天才的に、音楽を瞬時にくみ取れる由紀乃先生のような方とは違い、凡人の我々にとって、音楽を知ることはどのようなことになるのでしょうか?と聞かせていただいた。
それにはやはり、ゆっくりと丁寧に、楽譜を音にして、その音を聴きつくすことであると。
「聴きつくす」・・・レッスンにおいて、由紀乃先生が横に座り、一緒に音を聴いてくださると、それだけでこちらの聴き方が変化する。まるで、ミクロ単位の金属加工の人間業とは思えない職人さんの指先のごとくに神経を集中させ、真剣勝負で妥協を許さず全身全霊で聴いていく。
心の中には、全くの不純物無し。
これでもまだまだ、スタート地点にいるだけなのだ。
ちなみに、「あたまで弾く」云々という話をさせていただくと、
「きっと具体的に脳波をとったら、ものすごくさまざまな部分を使っていることがわかるでしょうね。でも、そんなことは、『演奏』にとってはどうでもよいことです。」と。
荘厳な芸術の世界を凡人が泥水に漬けるようなことにしてしまってはいけないと、気持ちが引き締まる。
でも、温かく優しい、美しい音の世界なのだ。
「魂で奏でる」… その奥深さに到達はできないけれど、そこを向いていたいと思っている。
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